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豊島簡易裁判所 昭和36年(ハ)196号 判決

原告 梶井直卿

被告 岡部馬之助

主文

原被告間の豊島簡易裁判所昭和三四年(イ)第一五七号家屋明渡和解調書正本に基く強制執行はこれを許さない。

訴訟費用は被告の負担とする。

当裁判所が昭和三十六年四月十二日当庁昭和三六年(サ)第二四〇号事件につき為した強制執行停止決定はこれを認可する。

前項に限り仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は主文第一、二項同旨の判決を求め、その請求の原因として、

一、原告は昭和三十四年六月十五日被告からその所有の豊島区池袋一丁目五七二番地所在木造瓦葺二階建事務所一棟建坪延三十七坪四合九勺(以下本件家屋という)を期間三年(但し期間満了のときは更新することができる)賃料一ケ月金五万円権利金三十万円敷金十万円、改増築することができる、中央建設相互株式会社が賃借家屋を使用することができる特約で賃借した。

二、ところで、右家屋を賃借する際被告は原告との間で前記賃貸借の内容で豊島簡易裁判所において和解を為すことを合意した。

三、しかるに豊島簡易裁判所で昭和三十四年七月二十二日成立した和解条項によれば

(イ)  原被告間において、昭和三十四年六月十五日本件家屋の賃貸借契約を合意の上解除されたことを確認し原告は昭和三十七年六月十四日限り明渡すことを受諾した。

(ロ)  原告は被告に対して毎月末翌月分の使用料として金五万円を支払うこと。

(ハ)  原告は中央建設相互株式会社(和解調書には中央建築株式会社と誤記されている)以外の第三者に転貸しないこと。

(ニ)  原告が(ハ)に違反した場合又は使用損害金の支払を二回以上怠つたときは明渡満了期限の利益を失い、即時明渡の義務が発生しその強制執行を受けても異議がないこと。

という趣旨の和解が成立した。

四、被告は原告に本件家屋を賃貸する前提として一に記述した内容の賃貸借契約を和解となすことの同意を得て虚偽の申立理由を記載して当該裁判所に和解の申立をし、(原告の認諾しない和解条項を添付して)原告には右賃貸借契約と同一内容の和解を為すものと信ぜしめたもので、和解申立の事実は虚偽であることが判明した。よつて本件和解調書は要素に錯誤のある無効のものである。

仮りに、右主張が理由ないとしても、原告の無智に乗じて原被告間に合意のない賃貸借契約解除があつたものとして契約解除を前提とする和解条項を添付した和解の申立を為して被告の言うがままに唯々諾々として和解を成立せしめたものであるから右和解は民法第一条同九〇条に反し無効である。〈立証省略〉

被告訴訟代理人は原告の請求はこれを棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁として、原告主張の請求原因事実中本件家屋が被告の所有であること、賃料一ケ月五万円で賃貸したこと、原告主張の如き和解の申立をなしその主張の如き内容の和解が成立したことは認めるがその余の事実はすべて否認する。〈立証省略〉

理由

原告が昭和三十四年六月十五日被告から原告主張の家屋をその主張内容で賃借したこと、その後原告主張にかかる家屋明渡和解事件の昭和三十四年七月二十二日豊島簡易裁判所で原告と被告との間に原告主張の如き内容の和解が成立した事実は当事者間に争がない。

原告の主張を要約するに、本件和解調書はその成立に関し要素に錯誤があり無効であること、右和解契約は民法第一条の信義則もしくは民法第九〇条に反し無効であるとの点である。

そこで、まづ本件和解契約が信義則に反するか否かについて考えて見ると成立に争のない甲第一号証と証人市川正己の証言原告本人尋問の結果を綜合すると、原告は昭和三十四年六月十五日被告から本件家屋を借り受ける際原告主張のとおりの内容で賃貸借契約書(甲第一号証)を作成し、その主張の如き権利金敷金を支払つたこと、右賃貸借契約は契約の日に合意解除されたこと、被告は市川正己の勧告に従い賃貸借契約を合意解除しておけば将来簡単に本件家屋の明渡が求められ、被告側の有利であるとのことのみに専念していたのに反し、原告は前記賃貸借契約とおり賃借できればよいと思い込んでいたところからその弱味につけこんで原告をして当該裁判所に出頭した場合唯々諾々としておればよいと申し向けられ、これを信じて和解条項および裁判上和解の効力等について十分な検討もしないで軽卒にも前記和解調書が作成せられに至つたことが認められ、また賃貸人たる被告は賃借人たる原告の弱味につけ込んで、将来における本件家屋明渡しの強制執行を確保するためにのみなされたことを推認するに難くない。この認定に反する証人市川正己の証言被告本人の供述は措信できないし他にこれをくつがえすに足りる証拠はない。

以上の事実によれば、原告は本件家屋の賃借に際しては賃料の外に権利金三十万円敷金十万円を支払つており、また契約条項中にも期間は三年と定められているけれども更新ができる、増改築、訴外中央建設相互株式会社(和解調書には中央建築株式会社と誤記されている)の使用を認める等賃借人たる原告側にも相当有利な条項が認められているので可及的長期にわたつて賃借が可能であると信じて右契約を締結したものであるにかかわらず前記和解条項によれば契約成立と同日にそれが解除され、しかも使用損害金の支払いを二回以上滞つたときは期限内と雖も直ちに明渡しをしなければならないというような賃借人の意思を全然度外視した和解契約が成立するに至つたことが明かであり、思うに賃貸借契約は特に賃貸人と賃借人との相互間における信頼関係を基調とするものであり、また権利の行使および義務の履行は信義に従い誠実にこれをなすことを要し権利の濫用は許されないのである。しかるに本件和解契約は前記事情のもとに成立し、和解という点においてすでに疑があり、それが仮に将来における強制執行に備える場合も紛争解決の手段として認むべきものであると解釈し得るとしても、契約成立とともに合意解除二ケ月分の使用料延滞による即時明渡し三十万円の権利金の没収というような信頼関係を裏切る和解契約は著しく信義誠実の原則に反しかつ権利の濫用として許すべきではないと解するのが相当である。

しかして、この条項は和解契約の主要部分でその他の条項はこれに附随するものであること明かであるから右和解は全部無効とすべきこと勿論である。

よつて、原告主張の爾余の点の判断をなすまでもなく、本件和解は無効であるからその無効を理由として和解調書の執行力の排除を求める原告の本訴請求は正当である。

よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条強制執行停止決定の認可、並びにその仮執行の宣言につき同法第五百四十八条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 市原虎治)

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